戦後日本の首相と株価|1989-2001|宇野宗佑から森喜朗まで
スポンサーリンク第2次世界大戦以降の日本の首相と平均株価の推移をまとめた。このページではバブル崩壊後の失われた10年とITバブル、宇野宗佑、海部俊樹、宮澤喜一、細川護煕、羽田孜、村山富市、橋本龍太郎、小渕恵三、森喜朗まで12年間9人の首相を掲載した。
同時代からの視点に近づけるため、チャートは首相退任時までの表示とした。点線から右側、背景が薄黄色の部分が就任後の株価推移。在任中の平均株価の騰落率は、政権発足日の終値から退任日の終値までを採った。
宇野宗佑
1982 | 1983 | 1984 | 1985 | 1986 | 1987 | 1988 | 1989 |
- 首相在任期間
- 1989年6月3日~1989年8月10日
- 就任時平均株価
- 3万3457円08銭
- 退任時平均株価
- 3万4859円27銭
- 騰落率
- 4.2%
- 年率換算騰落率
- 22.5%
竹下登がリクルート事件をきっかけに辞任。自民党有力者が軒並みリクルート事件に関わっていたため、事件と関連のなかった宇野が首相に担ぎ出された。
就任直後に芸者スキャンダルが発覚、7月に行われた参院選に大敗し退陣。在任69日。
海部俊樹
1985 | 1986 | 1987 | 1988 | 1989 | 1990 | 1991 |
- 首相在任期間
- 1989年8月10日~1991年11月5日
- 就任時平均株価
- 3万4859円27銭
- 退任時平均株価
- 2万4950円86銭
- 騰落率
- -28.4%
- 年率換算騰落率
- -12.7%
バブル崩壊時の首相。戦後、任期中の平均株価が下落となった初めての首相。
竹下派の傀儡。自民党は政争に明け暮れ首相に実権はなかった。湾岸戦争の戦費130億ドルを提供。
宮澤喜一
1986 | 1987 | 1988 | 1989 | 1990 | 1991 | 1992 | 1993 |
- 首相在任期間
- 1991年11月5日~1993年8月9日
- 就任時平均株価
- 2万4950円86銭
- 退任時平均株価
- 2万493円05銭
- 騰落率
- -17.9%
- 年率換算騰落率
- -10.1%
バブル崩壊後の景気後退に対応するため、金融機関へ公的資金を注入し、不良債権を処理する必要を訴えるも反対が強く果たせなかった。
自民党は激しい政争で分裂状態となり、内閣不信任案が成立。解散総選挙に打って出たが敗北。自民党は38年ぶりに政権党の座を失った。
宮澤は後、小渕恵三内閣で大蔵大臣に就任。金融危機への対応に当たった。
細川護煕
1987 | 1988 | 1989 | 1990 | 1991 | 1992 | 1993 | 1994 |
- 首相在任期間
- 1993年8月9日~1994年4月28日
- 就任時平均株価
- 2万493円05銭
- 退任時平均株価
- 1万9725円25銭
- 騰落率
- -3.7%
- 年率換算騰落率
- -5.2%
日本新党ブームを巻き起こし、38年ぶりに自民党以外から誕生した首相。細川幽斎に遡る名家の出。
任期中は政治改革に取り組む。小選挙区制導入。国民福祉税構想発表後、政権運営は迷走。就任から1年足らずで退陣。
羽田孜
1987 | 1988 | 1989 | 1990 | 1991 | 1992 | 1993 | 1994 |
- 首相在任期間
- 1994年4月28日~1994年6月30日
- 就任時平均株価
- 1万9725円25銭
- 退任時平均株価
- 2万643円93銭
- 騰落率
- 4.7%
- 年率換算騰落率
- 27.0%
首相指名後、小沢一郎に反発した社会党と新党さきがけが連立与党を離脱。少数与党として政権発足。予算成立後、内閣不信任案成立。自民党時代に選挙制度改革に取り組み小選挙区制度導入に尽くした羽田は、中選挙区制での総選挙を避けるため内閣総辞職を選択。在任日数64日。
村山富市
1989 | 1990 | 1991 | 1992 | 1993 | 1994 | 1995 |
- 首相在任期間
- 1994年6月30日~1996年1月11日
- 就任時平均株価
- 2万643円93銭
- 退任時平均株価
- 2万377円92銭
- 騰落率
- -1.3%
- 年率換算騰落率
- -0.8%
政権党復帰を狙った自民党の策により自社連立政権が成立。社会党から47年ぶりの首相となる。就任後、社会党の方針を180度転換し自衛隊合憲、日米安保体制堅持方針を示した。
1995年1月の阪神・淡路大震災では有効な対応をとることができず、激烈な批判を浴びた。
橋本龍太郎
1991 | 1992 | 1993 | 1994 | 1995 | 1996 | 1997 | 1998 |
- 首相在任期間
- 1996年1月11日~1998年7月30日
- 就任時平均株価
- 2万377円92銭
- 退任時平均株価
- 1万6201円60銭
- 騰落率
- -20.5%
- 年率換算騰落率
- -8.0%
自民党から再び首相となる。日本版金融ビッグバンを提唱。省庁再編に取り組む。普天間飛行場の返還で米国と合意。
1997年アジア通貨危機。北海道拓殖銀行、山一証券が相次いで破綻。財政再建路線からの転換を余儀なくされる。景気低迷により翌年の参院選に惨敗し総辞職。
小渕恵三
1993 | 1994 | 1995 | 1996 | 1997 | 1998 | 1999 | 2000 |
- 首相在任期間
- 1998年7月30日~2000年4月5日
- 就任時平均株価
- 1万6201円60銭
- 退任時平均株価
- 2万462円77銭
- 騰落率
- 26.3%
- 年率換算騰落率
- 15.6%
自自公連立を成立させ政権基盤が安定。日米ガイドライン、国旗・国歌法、通信傍受法、国民総背番号制などを成立させた。2000年4月2日脳梗塞で入院。5月14日死去。
在任期間の大半がITバブルの時期に当たり、不動産バブル崩壊後の首相としては、平均株価の上昇率は例外的に高い。
森喜朗
1994 | 1995 | 1996 | 1997 | 1998 | 1999 | 2000 | 2001 |
- 首相在任期間
- 2000年4月5日~2001年4月26日
- 就任時平均株価
- 2万462円77銭
- 退任時平均株価
- 1万3973円03銭
- 騰落率
- -31.7%
- 年率換算騰落率
- -30.0%
急逝した小渕恵三に変わり、5人組の密室協議で誕生。成立の経緯から問題含みだった森喜朗内閣は、発足当初から人気が低迷。失言、えひめ丸事件への対応などで失態を重ね、もともと低かった支持率はさらに低下した。
任期中の平均株価下落率は戦後最悪。ただ、これには2000年4月24日に平均株価構成銘柄が一挙に30銘柄入れ替えられ、指数が連続性を失った問題も絡んでいた。