タイプライターを巡るデマと19世紀末のメディア産業

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キーボード配列QWERTYの謎
キーボード配列QWERTYの謎」という本を読んだ。タイプライターのキー配列がQWERTY配列になっていく過程と、QWERTY配列をめぐる嘘がなぜ広まったかを描いている。 私はこの本を、現在に重ね合わせながら読んだ。本書はQWERTY配列の誕生をめぐるデマを否定するために、タイプライターが発明され普及していくまでを詳細に論じているのだが、この部分が、19世紀末のメディア産業をめぐるテクノロジー競争の紹介にもなっている。 例えば、タイプライターの発明者でありながら主導権をとれず、それでも一生をタイプライターの改良に捧げたクリストファー・レイサム・ショールズは1840年、18歳の時にウィスコンシン準州グリーン・ベイのウィスコンシン・デモクラット紙の編集者として出発し、後に自ら創刊したサウスポート・テレグラフ紙の編集長となった新聞人だ。ショールズがタイプライターの開発を始めたのは、新聞製作の効率化のためだった。レイサムの友人となり、やはり初期のタイプライター産業の重要プレーヤーとなったジェームズ・デンスモアも人生の一時期を新聞編集長として過ごしていた。 タイプライターが登場した頃、アメリカではモールス電信機による電信需要が増大し、通信量が爆発的に増加していた。そして、増加し続ける電信をさばく仕組みが必要になっていた。タイプライターは、そのための仕組みとしても格好のものだったのだ。 情報に関連したテクノロジーがメディア産業のあり方を変化させ、通信量が増大するという状況が同時にある。そしてそれらを実現するテクノロジーをめぐり、特許紛争や買収、企業の盛衰、起業家や技術者、メディア人の人生が交錯する。ネットスケープ・コミュニケーションズに始まり、グーグルやアップル、マイクロソフト、アマゾンといったIT業界の巨人が争い、多くの起業家や技術者が時代と格闘する20世紀末以降の状況を重ねあわせて読んだのはこうした点だ。 以下、面白かった部分を記録しておきたい。

QWERTY配列をめぐる嘘

現在主流のキーボード配列がQWERTYというなぜそうなったのか理解し難い並び方になったのは、タイプライターのアームが絡まないようにするためとの説がある。あまりに速くタイピングを行うと、タイプライターのアームが絡んでしまうため、わざと打ちにくい配列にしたのだという。この説は繰り返し紹介され、広く信じられているようだ。 これは全くのデマなのだという。 商業的に成功した初めてのタイプライターは、1867年にアメリカでクリストファー・レイサム・ショールズが発明した。それからしばらくのキー配列は様々なものが登場しては消えていっている。QWERTY配列に近いものは、1872年には登場していたようだ。参考までにキー配列を引用すると、上段から順に「23456789-,’」「QWE.TYIUO_」「ASDFGHJKLM」「&ZCXVBN?;RP」。少なくともアルファベットキーが現在のQWERTY配列と同じになったのは1882年。そしてこの初めのQWERTY配列のタイプライターにはアーム機構がなかった。アームを持つタイプライターが発明されるのは1891年で、実際に普及を始めるのは20世紀に入ってから。つまり、アームが衝突するのを防ぐためにキー配列がQWERTYになったというのは全くのでたらめなのだ。

19世紀のユーザーインターフェース競争

19世紀末の競争は、やがてユーザーインターフェースをめぐるユーザー間の争いに発展する。 1888年、タイピングの腕を競うコンテストが開かれる。異なるキー配列を持ったライバル社のタイプライター間で、タイピングの速さと正確さを競うという内容のものだ。一方のタイプライターは現在とほぼ同じQWERTY配列の「レミントン・スタンダード・タイプライターNo.2」。もう一方は「カリグラフNo.2」で、大文字と小文字が別に用意され、キーの数が合計72個あるというタイプライターだ。キー配列は合計6列で、上から「VW23456789JK」「RTE($q&z)UGH」「ASwtreyuiolO」「DFasdfghckNL」「BCjxvbnlmpMP」「QX:;’?”.,-YZ」。結果は、QWERTY配列のレミントン・スタンダード・タイプライターNo.2の圧勝だった。 この時レミントン側のタイピストだったフランク・エドワード・マッガリンはこの闘いの後もコンテストに出続け、レミントンのタイプライターの方が優れているのだと主張し続けた。カリグラフを製造している会社に抗議の手紙を送ったり、カリグラフのキーがいかにダメかを雑誌に発表したりしている。現在で言えばエバンジェリストといったところか。口の悪い者ならレミントン信者と揶揄したかもしれない。 タイピングコンテストは何度も開かれ、レミントンが勝つこともあればカリグラフが勝つこともありで、初めのうちはどちらが優勢というわけでもなかったようだ。それでも長い目で見るとレミントン側が優勢になっていった。 重要なことは、タイピングスピードを遅くするためにキー配列を変えるなどという発想は全く存在せず、互いにどちらがより速く正確にタイピング出来るかを19世紀末に競っていたという事実だ。つまり、QWERTY配列がタイピング速度を落とすためにできたという説は、この点でも否定される。

QWERTY配列の独占、挑戦するエンジニア

1890年頃、市場では多くの会社がバラバラの規格でさまざまなタイプライターを製造し販売していた。価格競争を避けるため独占が図られ、1893年、市場シェアの90%以上を抑えるタイプライター・トラストが出現した。タイプライター・トラストは持株会社形態を取り、巧妙に反トラスト法を迂回していた。 そしてキーボード配列はQWERTYに統一された。しかし、アーム式のタイプライターはタイプライター・トラストによって作られてはいなかった。タイプライター・トラストのタイプライターはアップストライク式で、この方式だと印字中の文字が見えない。印字中でも文字が見えるフロントストライク式タイプライターこそが、より優れた技術だった。その優れた技術は、独占市場にあぐらをかく巨大会社によって作られたのではなかった。 市場の寡占を快く思わない技術者、フランツ・ザビエル・ワーグナーは、フロントストライク式タイプライターを開発しタイプライター・トラストに挑む。ワーグナーはユーザーがタイプライター・トラストのタイプライターから自社のタイプライターに移行しやすいよう、キー配列をQWERTYにする。タイプライターをめぐる技術競争の土俵が、キー配列からアーム機構に移った瞬間だった。OSで市場シェア90%を占め、ブラウザの寡占にも成功しかけたマイクロソフトが、競争の主戦場をブラウザを通じたソフトの提供に変えられ力を失ったような出来事が、19世紀末にも起きた。ワーグナーは、競争のルールを変えたのだった。その後、ワーグナーのフロントストライク式タイプライターは「20世紀の最初の10年間で、タイプライター市場の50%以上のシェアを獲得する」ことになった。

デマの誕生と成長

QWERTY配列をめぐるデマは、1933年に大きく育つ。 1932年、ワシントン大学准教授のオーガスト・ドボラックは、後にドボラック配列と呼ばれる新しいキー配列を開発する。ドボラック配列は、より使用頻度の高いキーを中央に集め、高速で効率的な入力を可能とすることをめざして考案された。ドボラックはQWERTY配列を攻撃し、「この奇妙で継ぎはぎだらけのキー配列」は「衝突や引っかかりが起こらないように」配置が決められたという内容のことを論文に記す。この説は1920年代の幾つかの書籍で言及されており、ドボラックがオリジナルというわけではないという。しかし、このデマに生命力を持たせたのはドボラックに他ならない。 ドボラックは1975年まで生き、生前度々QWERTY配列を攻撃した。そのたびごとにQWERTY配列をタイピングスピードを遅くするために生まれた配列と述べ、ドボラック配列の有効性を訴えた。そして実際に、ドボラック配列は有効なものだったようだ。Wikipediaのドボラック配列の項によると、タイピングの世界記録はこの配列で樹立されたという。より優れた配列が普及せず、QWERTY配列が中心であり続ける状況は、デマにさらに信憑性を持たせたことだろう。 デマが世界に広がっていった例として取り上げられているのは日本で、1964年に発刊された技術の歴史 第10巻の記述だ。1980年以降にますますアンチQWERTY説が力を持つ過程などは、結構詳しく日本での受容が描かれている。1987年には坂村健がQWERTY配列はキーを速く打てないようにするため誕生したと書いているそうで、多くの人が信じてしまうのも無理がない。

QWERTY配列誕生をめぐる嘘の今後

それでQWERTY配列誕生をめぐるデマは、現在どうなっているのか。私がこの話がデマだと知ったのは、本書の書評を偶然読んだことによってだ。その書評を読まなければ今でもデマを信じていただろう。 少し検索してみた限りでは、現在でもこのデマは多くの人に信じられているようだ。例えば、テレビ朝日は2009年にクイズ雑学王という番組でQWERTY配列はタイピング速度を遅くするため生まれたと放送したようだ。 もっともそこは良くしたもので、GoogleでQWERTY配列の誕生に関連した語句で検索すると、この説がデマであることを論拠とともに記してあるサイトを上位表示する。してみると、今後はデマの生命力も衰えるのかもしれない。 キーボード配列QWERTYの謎
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